父のことがあったわけではない。前もって、2月17日に予約していたので・・・・。2月17日早朝、クリニックの代診を妹に頼んで、小雪降る中に熊本赤十字の健康管理センターに向かう。今回は胃カメラ(上部内視鏡)を受けるつもりなので、タクシーで行った。7時前についたので、まだ門は締まっている。冷え込む中玄関前で待つこと10分、門が開いた。

入って、体温をチェックされて、4階へ。通常の健康健診であれば、受付は2階であるが、今回は人間ドックなので4階受付。つくとすでにスタッフの方は待機しているし,中は暖かい。(ということは、健康管理センターの方々の仕事開始は、7時前からということになるが・・・)

7時45分から受付が始まり、着替えて、8時くらいから健診スケジュールが開始された。まだ他の検診者が少ないので、すいすい回る。

2021-02-17 08.12.05

あちこち回ると次第に人も増えてきた。


2021-02-17 08.12.24

以前はこんなものはなかったと思う。


2021-02-17 08.11.35

三階と四階を行ったり来たり。しめは、胃カメラである。以前、見栄を張って、覚醒したままでお願いしてつらかった覚えがある(その時は、胃カメラも大腸カメラもどちらも嘔吐と腹痛で悩まされた)。なので、以来、素直に眠らしてもらっている。でも今回は、量が少なかったのか、半ば覚醒状態で、少しきつかった。

食道から十二指腸まで見てもらって、所見として、逆流性食道炎、胃の小さなポリープ、痕跡的ピロリ菌の炎症所見ということであった。ピロリ菌は除菌の必要なしで、ポリープも生検の必要なし、とのことであった。

高脂血症と内臓脂肪の増加が指摘されることは予想の範囲内であるが、あとは上腹部と胸部に何らかの病気がCTやエコーでみつかったかどうか、そして前立腺の結果は、と待つばかりである。

2021-02-17 08.12.42

さてこの日一番つらかったことは、胃カメラではない。朝、起きて水分以外摂取不可がきつかった。朝のコーヒーが飲めない時間が長くて・・・・・・

11時前にはすべて済んだ。最後に建物の5階のレストランで薬膳がでる、と。薬膳~と思ったが、カロリーに気を使ったランチのようなものである。空腹もあり、おいしくいただいた。

帰りがけちょっと気になって、のぞいてみた。北館の屋上

2021-02-17 10.51.52

昔、ここで、1泊2日の日帰りドックを受けたことがある。確か、1日目の終わりに大きな風呂に入った覚えがある。ここだと思う。でも、今は閉鎖されているとか。コロナだからか、あるいは維持費がかかるからか、それはわからないが・・・・。

薬膳の写真はインスタにアップできたが、記録として残っていなかった。

父のことをこうやって数回にわたって書いている。これは私の心の整理ということで・・・。今しばらくお付き合いをいただきたい。

CIMG5977


父は40歳で西村産婦人科医院を開業し、82歳ごろに閉院し、その10年後に93歳で亡くなった。閉院後から少しづつ父の元気がなくなった(生きがいをなくした)と思っていたが、考えてみればそれなりの年齢でもあった。ただ、ここ数年は認知症がすすみ、そちらの方がより残念であった。やはり生活を一緒に営んだはずの子供の名前を憶えていないのは少し寂しい。

父が還暦の頃は、33年前である。で、開業医生活でいえばちょうど折り返しの時点でもあった。父が還暦の頃、私は27歳であったことになる。当時の私は、医学部を出て、研修医を経て、医学部の大学院に進学していたころである。

父と同じように開業医となり、診療を続けて、そして還暦を迎えた。ここ数年診療を1日続けると疲れたと感じるばかりである。なので、妹の西村佳与子医師あるいは青木医師が午後の診療をおこなってくれると非常に助かるし、私の負担も減る。

そうした時期を、父は一人で黙々とこなし、それもそれから22年間も続けたことになる。自分でやってみないと体感できないことであるが、還暦を超えるまでも大変で会ったろうけれど、そのあとがもっと大変であったであろうにと、思うばかりである。なので、今となっては、診療が終わって自宅に帰れば、さっさとビールの栓を開けて、というのも十分に理解できる。今の私も、一日の診療が終われば、もうおしまいモードでゆっくりしたい。ここでゆっくりしておかないと、翌日の診療が、と感じる。

慣れないことをして、つかれるよりも・・・。なれない食べ物に手を出して、つまらない思いをするよりも、いつものように安定した何かでゆっくりできる方がはるかにいい。いま、ようやくそうした心境が理解できるし、共感できる。もっと早くこうしたことに共感できればよかったのであろうが、これまでの私では理解できなかったことであろうし、共感しようともしなかったかもしれない。

CIMG5975

私が小さかったころ、この時期は白川公園で植木市が開かれていた。私の父は園芸作業はしていなかったと思うが、毎年植木市には連れていかれていたような気がする。人だかりの中を、家族で回っていた。綿菓子を買っていたような覚えもある。

季節は廻る。その中で人の営みも少しづつ変わる。私も結婚し、子供ができて、開業し、と。私も当然ながらいつかはリタイアをするわけであるが、果たして今から22年も開業をつづけられるかな、と。

写真は10年前の戸島で植木市が開かれていたころのもの。

私は昭和35年生まれで、父の開院が昭和42年であるから、父が開院したころ私は小学1年生であったことになる。あるいは幼稚園の最終学年であったかもしれないが。開院当初は、診療所の3階に住んでいた。なので、幼稚園あるいは小学校から帰れば、建物の3階へと。

今になって思えば、3階には、父と母の一室と、子供部屋の一室しかなくて、よくそこで家族4人暮らせたものであると思う。しかし、だからこそ家族の生活は子供にもよく見えた。数年後に診療所の裏に自宅が建てられた。そこでは私の部屋と妹の部屋が与えられ、生活空間ははるかに広がった。

しかし開業医だからこそ、父はいつもそこにいるわけで、私が小学校から帰ればいつでも会える距離であった。

DSC_0014

(前回に続き、登場である。この建物3階部分の東側に住んでいた。左の二階建ての建物は、当時の職員の寮であり、右側の家が祖父祖母の家であった)


父の開業当初、食事は厨房の部屋で家族そろって一部従業員の方も交じって、という状況であった。朝食も、昼食も、夕食も。当時は住み込みの従業員(准看護師)もいらしゃったはずで、大家族のような感じで食事であったような気がする。

自宅ができてからは、食事は家族だけとなった。私の場合は、朝と夕は家族と、昼は学校の給食という形となった。ということで、父の食生活をずっと見ていたわけでもある。しかし、私は中学高校と久留米で過ごし、大学時代に再度熊本に帰り、それからまた父と一緒に過ごした。

父の生活は、ある意味、ステイホームのようなものであった。産婦人科医でお産を取り扱う以上、あちこち遠くにも行けなかった。また父は魚系統が苦手で、寿司もちらし寿司以外はだめ、と。なので自宅では母がさまざまな料理を肉食を中心に料理をしていた。

そうした父の楽しみが、週末の肉食であり、その当時の焼き肉屋、ステーキ屋、などに週末家族そろって出かけていた。ロイヤルホスト(焼肉)、焼き肉ソウル、東洋軒、焼肉のウエスト、などが私の覚えているお店である。残念ながらこれらのお店は当時の場所には今はない。


DSC_0057

この写真は、2009年12月のものである。たぶんこの年に、父は西村産婦人科を閉院した。その年の年末に家族だけの忘年会である。忘年会だからか、父はネクタイをしてスーツを着ている。このお店はステーキ屋さんで、そして父の手元には、ワインとビールがある。

肉とビールが一番の父の好みであったような気もするが、時にワインや日本酒やウィスキーも飲んで居た。産婦人科医としての父の姿も見て育ったが、こうして生活した父の姿も私の記憶に刻み込まれ、結果として私も同様な生活となった。

唯一まねできなかったのが、タバコである。一時期煙草を吸ったが、どうも合わず、やめた。また父は園芸と調理自体には興味はなかった。スポーツ観戦と碁が好みであった。ここら辺も父とはどうも合わないけれど、これらはどちらもその後の父の生活の中での習慣であり、私も今の趣味はある意味開業してから身についたものである。

DSC_0017

この犬は、私の子供が友人として迎え入れた(一人っ子であったので)。しかし、福岡に転居し、マンションで犬が飼えず、実家に預けることになった。約2年くらい実家に預けていた。私の開院に合わせて、クリニックの4階で一緒に過ごすつもりであった。

しかし、実家の生活に犬が慣れていたこと、そして何よりも父が可愛がっていた。夕食時、いつも自分の肉を取り分けて与えていた。彼もそれがわかっていて、夕食時には父の傍を離れなかった。この犬も数年前に他界した。この写真が実家に飾られていたが、今回父のお骨を焼くときに、一緒に焼いた。天国で一緒に暮らせますように、と。

↑このページのトップヘ