”ずる”するといいことはない。これは実感である。ずるしても身につかないし、結果としてまた同じ失敗をしてしまう。だから失敗をいい経験に置き換えるためには、正面から事態に取り組んで行くことが大事である、と思っている。

それでは、分娩に関してはどうか、と。生みの苦しみを味合わないとだめである、という人もいるかもしれない。しかし、分娩に関してはどうであろうか。

私は男性なので、分娩を直接味わうことはできない。ただ、当院でのお産もそろそろ通算3000を超え、そうしたお産についたものの感想として言うならば、お産に関する経験で学ぶ人は学ぶかもしれない、でも何回お産しても学ばない人は学ばないかもしれない、なと。

それはやはりそれだけお産がより強烈な経験であり、痛みも強いものであるからだろう。ただ人によって、痛みに対する感覚、あるいは自己を抑制する能力の程度箱となるであろう。それに、お産の時間帯にもよるかもしれない。悩む間もなく、つるっと生まれてしまう人もいれば、3日3晩眠れない人もいるわけで・・・・。

その日との状態と出産時の状態によって、お産に関する記憶も再編集されるわけで、そうした一連の経験が、その女性にどのような影響を及ぼすのか、と考えないでもない。時に当院でお産を希望されう方々の中に、以前のお産の記憶があまり鮮明で、痛みと苦しみの思いでしかないので、当院での無痛を希望されるという方もいらっしゃる。

お産という極限の場では、基本的にはその個人の持っている本来の姿を露出させる。しかし、中にはがまん強い人もいて、露出させずに済む人もいる。そしてその極限での経験は、たぶんあまりに痛すぎて、忘れてしまえるから、次の妊娠ができる。でもお産の時にきつかった思い出は残っているので、無痛を希望されるのかな、と。

眠れない、先が見えない、痛い、食事も水分も十分に取れない、こうした状態が際限なく続くことは大変なことである。それでもせめて、朝入院して夜までに生まれればまだいい。問題は眠れない夜である。眠れな夜が明けて、まだ生まれない、これはこたえると思う。人間の元気の源は、十分な睡眠と栄養補給と気分転換であると思うが、そのどれもできず、かつそれがまだ続き、逃げ道はない。

以前数か所の施設で産婦人科医として働いていた時期、そうした疲労困憊の妊婦様に当たることはよくあった。疲れ切って、陣痛も遠ざかり、それでうつらうつらして、時間が経過する。ある程度回復したところで薬剤による陣痛を付けて、またそれもだめで結果として帝王切開となる。そうした光景はある意味では当たり前であった。

その後世の中も少し変わりそうしたお産もいくつかの理由で減ったかもしれないが、依然としてそうしたお産を続けている施設もきっとあることであろう。それは当院でもそうしたお産が全然ないわけではない。基本的にはお産のスタイルを決めるのは、お産の当事者であるお母様でであるわけであるから、そのお母様がそうしたお産を望むのであれば、それにお応えする。

とはいえ、やはり疲労著しい方であれば、その時点で、帝王切開、無痛分娩の選択肢をお勧めすることとしている。それはできれば下からできれば生んでほしい。そのための一つの方法であり、無痛に分娩に挑戦しても、それでも生まれず、帝王切開となることもあるかもしれない。

疲労困憊の状態で出産すると、生んだ後も大変である。生んだ後は、筋肉痛と創痛があって、そこに新たな育児とおっぱいの管理という事態が始まるわけである。お母様に余力がないと、予想もしなかったような結論が出かねない。自分の本性をさらすのも一つであるが、ヒトとしての動物の本性は隠しながらヒトとして生きていくことも一つである。要は、その人の考え方次第であろう。

そうしたことを考えると無痛分娩のほうがいいような気がするが・・・

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中庭のバラである。今が盛りである。露地植えにしてよかった、と思っている。