私が大学を卒業したのは昭和60年。当時は土曜日は半ドンの世界が当たり前であった。学校は土曜日は午前だけ、大学も病院も午前中は業務、という時代であった。卒業する前後で、週休二日制が導入され、土曜日が休みになった。制度の導入当初は、土曜日の前の金曜日、あるいは木曜日は何となく楽しかった。

 大学卒業後、産婦人科医として研修が始まり、以後産婦人科医として歩み始めた。産婦人科医であるから、お産は常に意識しているけれど、勤務する施設によってお産の頻度が違う。当時(昭和60年/1985年)の熊本県の産科事情を私が正確に知っているはずはないけれど、大多数の産科の施設は開業医であり、毎月30前後のお産の数をこなし、多ければ50、少なければ10数件というていどではなかったろうか。公立病院もたぶん同じくらいであったと思う。

 当時は、医者の残業はあって当たり前で、奉仕の心というより、こうした残業は医師の研鑚の一環である、というような雰囲気であった。何もなくても土曜日曜に病棟に顔を出し、あるいは翌週の用意をして、そして緊急という匂いがあれば、その場に飛びこんでいく。経験することが何よりもの力の源と、となると思っているし、これはいまでもかわらない。

 鉄は熱いうちに打て、というわけではないけれど、何をするにしても、最初はがむしゃらにしないと、身につかない。最初から9時から17時までの勤務だけでは、さまざまな経験は身につかないし、またそれではお互いの連携も進まない。とはいえ、そんな勤務をずっと続けることは、体力的にも時に無理を生じる。そうしたときには、どこかで一休み、周りはそれを黙認する、というような雰囲気であったように思う。こうすることで、オーバーワークを予防していたような気がする。

 当時は、当直しても翌日勤務は普段通りで、当直時にお産に遭遇すると、睡眠不足で翌日が憂鬱であった、ことを今も覚えている。(とはいえ、これは今となっては、宿直業務であったから、ということであろうけれど、当時は宿直と当直の区別がわかっていなかった。そして、宿直という分類であっても、やっていることは当直であるから、やはり少し無理があることも、今となっては理解している)

 現在は、医療の世界においても、過労や残業代未払いの問題もあり、労働条件は私のころに比べてはるかに改善されているように思う。でも、そうした制度をすべてまもれば、お金も時間もたりなくなることであろう。

 しかし世の中に様々な情報があふれ、そうした情報に触れて不安になった方々は、やはり医療の世界の門をたたく。また実際に緊急時の病態で医療施設を訪れる方もいる。また、産科であれば、陣痛がきた、出血した、などの事象はいつでも起こりうる。

 門を開けば様々な方が訪れるわけで、それを取捨選択することはなかなか難しい。医療の世界に完全にAIが導入され、診断も治療も人工的に行われるようになれば、そうしたことはなくなるかもしれない。そうなる日がいつか訪れるかもしれないが、そうなれば医師の仕事はなるかのかな、と。

 ま、そうした日が訪れるのは、少なくとも私の存命中にはないであろうから、今しばらくは、私は医療の世界に身をおいて、日々通常の診療に身を浸して、と。日曜も、夜も、あまり関係のない、産婦人科であるけれども、きつかったらどこかで一休みすればいい、と。いまさら、鉄を熱いうちに打つつもりはないけれど、でも普段通りに何かを続けていくことが、今の診療レベルを保つことであり、そして私のライフワークであり、ボケ防止であろう。

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好天の一日、戸島山を望む。そろそろ冷え込みも始まった。