私は昭和35年生まれで、父の開院が昭和42年であるから、父が開院したころ私は小学1年生であったことになる。あるいは幼稚園の最終学年であったかもしれないが。開院当初は、診療所の3階に住んでいた。なので、幼稚園あるいは小学校から帰れば、建物の3階へと。

今になって思えば、3階には、父と母の一室と、子供部屋の一室しかなくて、よくそこで家族4人暮らせたものであると思う。しかし、だからこそ家族の生活は子供にもよく見えた。数年後に診療所の裏に自宅が建てられた。そこでは私の部屋と妹の部屋が与えられ、生活空間ははるかに広がった。

しかし開業医だからこそ、父はいつもそこにいるわけで、私が小学校から帰ればいつでも会える距離であった。

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(前回に続き、登場である。この建物3階部分の東側に住んでいた。左の二階建ての建物は、当時の職員の寮であり、右側の家が祖父祖母の家であった)


父の開業当初、食事は厨房の部屋で家族そろって一部従業員の方も交じって、という状況であった。朝食も、昼食も、夕食も。当時は住み込みの従業員(准看護師)もいらしゃったはずで、大家族のような感じで食事であったような気がする。

自宅ができてからは、食事は家族だけとなった。私の場合は、朝と夕は家族と、昼は学校の給食という形となった。ということで、父の食生活をずっと見ていたわけでもある。しかし、私は中学高校と久留米で過ごし、大学時代に再度熊本に帰り、それからまた父と一緒に過ごした。

父の生活は、ある意味、ステイホームのようなものであった。産婦人科医でお産を取り扱う以上、あちこち遠くにも行けなかった。また父は魚系統が苦手で、寿司もちらし寿司以外はだめ、と。なので自宅では母がさまざまな料理を肉食を中心に料理をしていた。

そうした父の楽しみが、週末の肉食であり、その当時の焼き肉屋、ステーキ屋、などに週末家族そろって出かけていた。ロイヤルホスト(焼肉)、焼き肉ソウル、東洋軒、焼肉のウエスト、などが私の覚えているお店である。残念ながらこれらのお店は当時の場所には今はない。


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この写真は、2009年12月のものである。たぶんこの年に、父は西村産婦人科を閉院した。その年の年末に家族だけの忘年会である。忘年会だからか、父はネクタイをしてスーツを着ている。このお店はステーキ屋さんで、そして父の手元には、ワインとビールがある。

肉とビールが一番の父の好みであったような気もするが、時にワインや日本酒やウィスキーも飲んで居た。産婦人科医としての父の姿も見て育ったが、こうして生活した父の姿も私の記憶に刻み込まれ、結果として私も同様な生活となった。

唯一まねできなかったのが、タバコである。一時期煙草を吸ったが、どうも合わず、やめた。また父は園芸と調理自体には興味はなかった。スポーツ観戦と碁が好みであった。ここら辺も父とはどうも合わないけれど、これらはどちらもその後の父の生活の中での習慣であり、私も今の趣味はある意味開業してから身についたものである。

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この犬は、私の子供が友人として迎え入れた(一人っ子であったので)。しかし、福岡に転居し、マンションで犬が飼えず、実家に預けることになった。約2年くらい実家に預けていた。私の開院に合わせて、クリニックの4階で一緒に過ごすつもりであった。

しかし、実家の生活に犬が慣れていたこと、そして何よりも父が可愛がっていた。夕食時、いつも自分の肉を取り分けて与えていた。彼もそれがわかっていて、夕食時には父の傍を離れなかった。この犬も数年前に他界した。この写真が実家に飾られていたが、今回父のお骨を焼くときに、一緒に焼いた。天国で一緒に暮らせますように、と。